いつくしむ 5.75

「敦賀、さん?」

ぎゅう、と、抱きしめられて、蓮の頬がキョーコの頭の上で擦れた。

「泣いている女の子の慰め方をオレは知らないから」

蓮はいつも、キョーコが泣くと抱きしめる。

「敦賀さん・・・誰かが泣いたらいつもこんな慰め方をしたらいけません」

「なんで」

「こんな慰め方したら」

「したら?」

誰もが勘違いをするんです、と、言おうとして、勘違いをしている自分に、また、涙が浮かんだ。

蓮の腕の中は、あまりに心地いい。

佐保が、唯一、何年も、何年も、ただ、知りたいと望んだその腕の中。

「敦賀さん、じゃあ、あと、五分だけ、このままでいてくれませんか」

「うん」

「佐保が、ずっと知りたかった事って、こんな風な感触、なんだと、思うんです。覚えます」

「・・・・佐保は、英嗣に抱きしめられたら、どんなに気持ちいいだろうと、何年も何年も待っていた。もちろん、英嗣も」

「はい」

「佐保はもっともっと色々望むだろう?」

「望みますけど」

「例えば」

というが早いか、蓮は、キョーコの唇ギリギリまで唇を寄せた。

「こういう事とか。どちらかというと、英嗣の方がいつも我慢できなくてしてしまうんだけど」

「はい」

キョーコのドキドキした心臓の鼓動が蓮に伝わる。

「オレにも、ドキドキしてる」

「・・・・当たり前です。佐保だってどんなに感情を表に出さないとはいえ、英嗣にだけはドキドキするんです」

「それから」

蓮はまた言うが早いかキョーコをソファに寝かせて、上からのぞき込む。

「こういう事」

「・・・佐保はどんなに英嗣を信じていても、それでも、次から次へと女の子が訪れる英嗣が他の女の人と恋愛をしているのではないかと、いつも、心配しています。十代後半からずっと、ですから。二十代の健全な男の子なら、何もしないで過ごすなんてできるのだろうか、約束の時が来るまでは、他の女の子と恋愛していてもいいと、理性では思っているんです。でも、本当は、嫌だし、約束の時が来てその約束を守ってもらえるのかどうかもわからない。怖いんです。英嗣はもちろん佐保が想像するような事はしません。だからまるで自分は英嗣の人生の時間を奪っていく拷問者のような人間に思っていて、実際、いつ、やっぱりごめん待てない好きな人ができた、と、言われるのか、いつ自分が捨てられるのだろうと。自分に縛っておけるものなんて何もないし、自分が何年も何年も何も出来ずにどうしてそんなに思ってもらえるのだろう、理由がどうしてあるのだろう、と。毎日、毎日、一枚、一枚、英嗣が愛おしすぎて、泣きそうな気持で、目の前の作品の紙を貼るんです。こんなに近いのに、全然遠い」

キョーコは泣きながら蓮に言った。
こぼれた涙を蓮は唇で受け止めた。
驚いたキョーコの跳ねた肌を、もっと強く抱きしめて、今度は本当に唇を重ねた。
何度も、何度も、何度も、何度も、ただ唇だけをつまむようについばむ。

それでも唇の出すキスの愛おしい音がする。息が互いを求めている。ハア、ハア、と、互いに吐き出される息は、すぐにでも溶けて抱き合ってしまえそうな程、熱かった。キョーコは、息継ぎをしようと、苦しそうに蓮の服の裾を握った。

「英嗣は、佐保の唇しか、知らない。普段はこうして、佐保の、体さえ、触れられない。あまりに触れたくて触れたくて、限界まで喉が渇くような気持ち、オレはよく知ってる。いつも、触りたい、触れたいって、英嗣にとって最大に綺麗なものの象徴である佐保を、男の欲望だらけで見つめてる。佐保がいつ目の前に座るお客に目を奪われ、いつ、佐保の目の前にやってくる沢山のきらめく才能たちに惚れてしまうだろう、と」

蓮の気持ちと英嗣の気持ちはほとんど同じで、思わず手で顔を覆った蓮を、今度はキョーコが抱きしめた。

蓮が妙に揺れているのを見て、何かまた自分が知らないトラウマなどが呼び起こされているのかもしれないとキョーコは思った。

「私たちは英嗣でも、佐保でもないですけど・・・」

キョーコは心のどこか一部で仕事のようにとても冷めて、心のどこか一部で恋を諦めて、そして殆どの部分で蓮への愛情と、愛しさと、優しさを伝えずにはいられなくて、まるで慰めるように穏やかにそう言った。

でも蓮は、思わずキョーコの唇を探した。
何度もついばんで、それから、唇を割った。一度蓮の舌先がキョーコの中に入ってしまえば、口腔内を音を立てて激しく舌でかき回した。

キョーコは蓮の熱を受け止めるのに必死だった。
キョーコには、今、これが英嗣なのか、蓮なのか、全く分からなかった。

蓮は、キョーコがまるで蓮を好きでいるように錯覚した。キョーコにもっとキスしたくて、もっと肌を知りたくて、キョーコのうなじにキスをした。自分のものと、しるしをつけてしまおうか。蓮の指はキョーコの着る蓮のパジャマの下から肌を伝い、腰を撫でた。うなじをぺろり、と、なめたところで、んっ、と、蓮を感じたかわいいキョーコの息を殺した声がして、蓮は思わずキョーコを見つめた。

「・・・・ごめん」

また少し言葉をきって、

「佐保じゃないのに」

「・・・・・・」

蓮は本当に女心なんて全く分からないひどい男だといつも思う。キョーコは、蓮が英嗣との境目が危うくなっていて、やはり自分を見つめるまなざしは佐保へのものだった事を思う。この唇は、佐保を、その向こう側には更に触れたくてたまらない誰かの事を思った身代わりだという事を。


それを心の隅は全部知っていて、それでも、蓮を思って、万が一英嗣が出来なくなったらと思って抱きしめた。でもそれは自分で自分への言い訳で、半分以上、それを全部分かっていて見ないふりをして自分の気持ちで抱きしめた。

だからキョーコの頬には、また、悲しくて涙が伝った。

蓮はまたキョーコを強く抱きしめる。

「ごめん」

「どうして、あやまるんです・・・」

「・・・・どうして、嫌がらなかった?仕事で他の男の家に行って、相手役の男がこうしたら、君はやっぱりこうされる?」

キョーコは首を振った。

「・・・しませんよ。さっきも言いましたけどほかの男の人の家なんて行きませんし」

「じゃあどうして」

「敦賀さん、私は、敦賀さんだから、敦賀さんだけは、許せるんです。いつでも味方だから。例え私を佐保と見間違えたり幻想を見たりして何かをしたとしても。多分さっき、もっとしてしまったとしても。敦賀さんが、私で敦賀さんの中の何かの気持ちを解放できるなら、私は、」

キョーコがそう言ったところで蓮は首を左右に振った。

「違う。佐保なんかじゃない。佐保となんて見間違えてない。オレに触れたのは同情?仕事?」

蓮の声は少し呆然としていた。

いつもの余裕がある蓮じゃない、と、キョーコは思った。

本当に蓮らしくない、と。

さらに、

「オレは君が好き」

と蓮はキョーコに言った。

キョーコは今そんな呆然自失でそう言われても、と思った。

だからやはり、蓮ではなく英嗣の感情でそう言っているのだと思った。

「・・・・・あの」

抱きしめられ続けていたキョーコはかえって妙に落ち着き払い、抱きしめられ続けていることに困惑した目で蓮を見上げた。

「本当にごめん」

蓮は、キョーコを離すと、ふらりと立ち上がった。

「これ以上抱きしめていたら、もっと知りたいと望んでしまうから。眠って?危ないから部屋に鍵をかけて。明日朝時間になったら、起こしに行くから、できれば、嫌がらずに顔を見せてほしい」

蓮はキョーコの方を見る事もせずに、テーブルの上のガラスのグラスを片付けるべく、グラスを乗せたトレイを持って出て行った。

 
部屋に一人取り残されたキョーコは、ぽかん、と、していた。

敦賀蓮が自分を好き?

キョーコには、それがどういう意味か分からなかった。
その言葉通りにその意味を受け取ることなど、到底できなかった。

佐保だからそうなったの?
他の恋は?
沢山の聞こえてくる噂は?

全部、まさか、一緒に仕事をすると、好きだと口説いてしまうの?

いつもは、一緒に仕事をした相手が敦賀蓮を好きになるのだとばかり思っていた。

もしかして敦賀蓮自身が、相手をいつも口説いていたの?

仕事に熱中しすぎて?

それとも寂しさとか?

そんなに手が早いの?

キョーコは、蓮の中に眠る底なしの闇や寂しさを沢山見てきたことを思い出す。

その空虚を埋めるための、恋愛中毒者だとでも?もしくは仕事中毒者。

仕事が徹底的すぎて自分と仕事との境目が無くなる経験が多すぎるのだろうか。

恋の数が多いのに、初恋すら言われないと分からない程に。

仕事にのめりこみすぎて。

妹を演じた時にそうしなかったのは、溺愛はしても、血のつながった妹だったからかもしれない。それでも一瞬我を忘れたのか、ベッドの上で蓮の腕の中に埋もれた。あの時蓮は、兄であったようなそうでなかったような感覚が少なからずした。


キョーコは大きく首を振った。

自分は蓮の味方だと言った。


蓮を疑わない。
愛しているから。

なんてバカなんだろう、と、キョーコの目には再び涙が浮かぶ。

このままでは、抱かれ、体を傷つけられてさえも、蓮を許してしまうだろう。

例えそうだったとしても。

 
――私は、許してしまうのだろう

 
蓮が仕事を徹底的にするがための恋の被害者が増えるのは理解できる。

蓮に幻想でさえ徹底的に愛された肌の記憶を消すことは難しい。

受け手側でさえそうなのだから。

蓮は徹底的に今、キョーコを、愛している。

触れたくて、待ちたいけど待てない。

恋の幻想を見ている蓮の気持ち。


 
――そして、私の、気持ち・・・

 
キョーコは自分の真の気持ちを見ないフリをした。

蓮のために。
蓮のためだけに。

例え佐保と自分が全く境目のないような気持だったとしてさえ、自分の気持ちなど、不要。仕事には。
 
 

キョーコは、ふぅ、と、息を吐きだして立ち上がって、蓮を探した。

蓮はキッチンで、グラスを洗っていた。

たった二つのグラスと、一枚のお皿を洗うのには十分過ぎる程大量の水が出しっぱなしで。

「勿体ないですよ」

キョーコは声をかけた。

蓮は返事をしなかった。

キョーコは近づき、水道を止めた。

そして、蓮の手からグラスを取り上げて、それを洗い、そしてすべてを拭いた。

「どこにしまえばいいですか?」

キョーコは何事もなかったかのように蓮にそう言った。

蓮は無言でそれを受け取り、そして、しまった。

キョーコは蓮の右手を両手で持って、改めて、見つめた。

「あの、私は、大丈夫ですから。気にしないでください。仕事なので。敦賀さんが、英嗣を徹底してくれていたのに、私がさっきは佐保になりきれなかったんです。その・・・キスを、そんなにしたことがある訳ではないですし、英嗣の体の中に持っている佐保へ愛情、誰かに愛されることを当たり前に受け止め慣れている訳でもないので・・・。『仕事なのに』英嗣の愛情を受け止めきれなくてごめんなさい。まだまだです」


蓮は言葉なくキョーコを見つめた。

やはり、何も、響いていない。

自分の言葉など。

全て英嗣のせいにされた。

キョーコには、どんなに率直に言い、どんなに口づけてみてさえ、ひっかかりもしないのだろうか。


「あの・・・明日もいつもの英嗣に会えるの、楽しみにしてます。・・・じゃあ、おやすみなさい」


キョーコは蓮の手を、ぎゅ、と、握って、離した。


キッチンを出ていくキョーコは、背を向けたまま、蓮に言った。


「あの、余計な・・・お世話かもしれませんけど・・・。英嗣が佐保に触りすぎて満足してしまったらいけないとも思うので・・・あまり、触りすぎないで、下さいね?」

「・・・ごめん」

言われたそばから蓮はキョーコのそばに行って、背中から抱きしめた。

「私の話を、聞いていましたか?」

「うん。聞いてたよ」

でも、いつも必ず英嗣の目を見つめて嬉しそうに話す佐保が、英嗣の目も見ずに話をして去って行こうとしたら、英嗣はそうするのかもしれない。

英嗣は、自分が佐保を傷つけたと、自分が傷つく。

そういう人だ。

頭に蓮の頬をすり寄せる感触がする。

「ごめん」

蓮は何度も繰り返した。

「大丈夫です」

そう言ったのは、佐保ではなくキョーコ。

「好きだよ」

多分返事をしたのは英嗣だとキョーコは思う。

首筋から肩にかけて蓮の唇の感触がする。

さらにパジャマの間から肩先の肌を吸い上げられたような感触がする。

これは。

でも、英嗣なら、多分そうする。


佐保は自分のものだと、散々、誰にでも宣言したい人だ。

佐保の肌にも、その痕を残すのも理解はする。

それでも、キョーコとしての自我が全くない訳ではない。

どきり、として熱くなり、耳まで赤くなったのは髪で隠れていて分からなかったと思う。

それでも、抱きしめ続けている蓮には伝わったかもしれない。

「うん・・・でも、触るのは約束が・・・それに、そんな、に・・・っ・・・」

今度はキョーコは佐保として返事をした。

でも、声が震えた。

言葉でごめんと散々繰り返した割に全然反省なんてしてないとキョーコは思う。


蓮だから、英嗣だから許せる行為だけれど、他の男性にそうされたら、多分、もっと違う感情を覚えるだろうという事も思いながら。

「・・・そうだね。でも触りたい。君もそう望んでる」

肌を通じてキョーコの戸惑いと熱は蓮に全て伝わっている。

「・・・先生に離されてしまいます」

「・・・分からないから。見ていないし」

「でも神様は見ているんです。私が英嗣さんに触られ慣れすぎてしまって・・・いつどんな挙動で先生がお分かりになられてしまうか分かりません。もしかしたら今先生が英嗣さんの所に訪ねて来られて見られてしまうかもしれません。だから、例え家でも本当にこうするだけですよ」

「うん」

「前からは、ダメですからね?背中、だけ」

「なぜ?」

「私も・・・我慢が、できなくなるから、ですよ」

原作の本の中にもある台詞なのに。言うだけでドキドキして、緊張する台詞。佐保も本当なら英嗣に触れたい。触れてほしいと思っている。それをキョーコは知っている。


「うん・・・」

蓮は、一度強くキョーコを抱きしめて離した。

そして、二人の、いつもの挨拶。

佐保の部屋の玄関で一度のキスをして、握手をして、別れる。

同じように、一度キスをして、握手をして、離れた。

「おやすみなさい、英嗣さん」

「おやすみ佐保。必ず鍵かけて」

それが英嗣のいつもの台詞。

ガチャリと鍵をかけた音がするまで、部屋の外で待って、そして、自分の部屋へ戻っていく。

佐保は、英嗣が扉を閉めるまで、そこに立っていて、そして、ドアが閉まる音がしたら、部屋の奥へ入っていく。いつもの二人の習慣。
 
ゲストルームで、ふう、と、キョーコは大きく息を吐きだした。
 
寝室で、ふう、と、蓮は大きく息を吐きだした。
 


英嗣は、事あるごとに佐保にたしなめられながら、ギリギリの理性を保って、佐保に愛を告げ続ける。

時々佐保が口説かれたり触られたり、他の男と少しでも出かけると、我慢できずに強引に部屋に入り込み、キスしたりする。

それを佐保であるキョーコは受け入れているらしい。

こんな、蓮の、プライベートの空間でさえ。

これからも他の役で他の男性とも、プライベート時間にさえ、仕事と思えばそうするのかと思うと、蓮は、もう、いくつかの覚悟を決めなければならないのかもしれないと、思った。


キョーコに、本当の事を告げたい、と。
 
 
携帯電話を取り出して、一つのボタンを押す。

相手は電話中で、すぐに通話は自動で切れた。

十五分程時間を置いて再度かけた。

「遅くにすみません」

「おー」

と答えたのはLME社長、ローリィ宝田。

「明日、少し寄りたいのですが」

「・・・別件と同じ件、かな」

「え?」

「最上君が今電話してきた」

「どういう件でお電話したかはわかりませんが」

「明日彼女が同席で話せる話じゃないんだろ」

「・・・できれば」

「待ってるから適当に来い」

「はい」

蓮は通話を切るとまた、深い息を吐きだした。









2019.2.12